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寺宝・文化財[国宝編]

幾多の戦火を免れた本堂は、安貞元年(1227)の創建時のままのものであり、京都市内(京洛)最古の木造建造物として国宝に指定されています。<br />また、行快作「本尊釈迦如来像」や、快慶作「十大弟子像(十軀)」、定慶作「六観音菩薩像(六軀)」など、壁画・仏像彫刻が国宝・重文です。大報恩寺(千本釈迦堂)

幾多の戦火を免れた本堂は、安貞元年(1227)の創建時のままのものであり、京都市内(京洛)最古の木造建造物として国宝に指定されています。
また、行快作「本尊釈迦如来像」や、快慶作「十大弟子像(十軀)」、定慶作「六観音菩薩像(六軀)」など、壁画・仏像彫刻が国宝・重文です。

本堂

本堂

承久二年(1220)に義空上人によって仮堂を建立、その後、貞応二年(1223)に、起工され、安貞元年(1227)に上棟されました。
永享年間(1429〜1441)、足利義教によって修理され、小屋束には、嘉吉元年(1441)の釘書があり、このときまで修理がなされていたことが知られています。室町時代には、将軍家からの帰依があり、本堂で修される遺教経(涅槃会・釈迦念佛ともいう)には、将軍家はもちろん公家からの聴聞もありました。
この後も延徳年間(1489〜1492)、永正十七年(1520)、天正十七年(1589)に屋根が葺き直させ、寛文九年(1669)から同十年にかけて、大修理を受け、末寺であった北野経王堂の部材と瓦をもって、屋根が瓦葺に改められました。
その後も幾度かの修理が行われてきましたが延享十五年(1745)から、再度大掛かりな修理が行われ、概ね昭和修理前の姿になったと考えられています。
明治三十年(1897)に特別保護建造物に指定され、昭和二十七年に国宝指定を受けました。昭和二十六年から同二十九年に行われた解体修理工事において本堂および厨子は、創建当初の姿に復元され、今日に至っています。

本尊厨子と天蓋

本尊厨子と天蓋

釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)は、大報恩寺のご本尊(秘仏)であり、須弥壇(しゅみだん)にある高御座式(たかみくらしき)の厨子(ずし)に安置されています。
快慶(かいけい)の弟子である仏師の名匠行快(ぎょうかい)の作で、高さ三尺(約90㎝)のご本尊と厨子は本堂が建てられた時に収蔵されており、木造で鮮やかな色付けが施されており、漆箔で仕上げて玉眼が嵌め込まれたものです。また、本体の内部にまで全面に黒漆が塗られ、その上に「巧匠法眼行快(こうしょうほうげんぎょうかい)」の銘が朱色の漆で書かれています。
天蓋(てんがい)も木製で漆(うるし)塗り、仏像の後ろに飾られる炎のような形をした光背(こうはい)は、木の透かし彫りや銀メッキの銅板で作られており、本堂の中央に収められています。

本堂来迎板壁仏画

本堂来迎板壁仏画

本堂の須弥壇にある奥の壁に、表裏2面ともに図が描かれています。鎌倉時代の本格的な壁画として、貴重なもので国宝に指定されているものです。
壁画は木製の板を10枚並べ、継ぎ目には麻の布を貼り、その上から黒漆、さらに上から白土を塗り重ねて下地にしています。
両面とも損傷が多く、相当な部分が剥がれ落ちているため、図の全容を知ることは出来ませんが、赤外線写真などによる解析では、足下から雲が湧き立ち、その奥に海の波が垣間見られ、雲の手前に20数体の尊像が並んで描かれている事が判っています。
特徴として、中央に中尊的な存在がないこと、中央には蓮華座に立つ尊像六体が並列で、中央の二体の後ろにも蓮台に立つ像が左右一対あります。
この八体以外はすべて上半身裸には、肩から腰まで斜めに掛ける条帛(じょうはく)をまとって、腰衣(こしぎぬ)と裳(も)(帯の付いたスカート状の衣服)を穿いています。
おそらくは八体が菩薩で、四天王が配され、他におよそ九体の像も確認されています。
裏面の図は、中央に釈迦、その周りに多くの菩薩と僧や一般の民衆、下の方には車があり、釈迦が霊鷲山にて説法をする図であると見られます。
描かれたのは、大報恩寺創建からおよそ70年後の須弥壇が改修された時代ではないかと考えられています。

本堂棟木と棟札

本堂棟木と棟札

屋根の最も高い部分に通して屋根全体の軸となる棟木(むなぎ)(むねきとも呼ぶ)には、神仏に祈願の意を伝えるための「願文(がんもん)」が記され、本堂の棟木に「安貞元年(あんていがんねん)」と年号があり、「釈子義空(しゃくしぎくう)」の署名などが残されています。
また、願文は正面以外の側面にもあり、「紀氏女(きうじめ) 源氏(げんじ)女 尼西念藤原氏女(さいねんふじわらうじめ)此丘尼」など多くの女性の名前が列記されていました。
また、建物の建築や改修の時に記念として、棟木や梁に取り付ける棟札(むなふだ)(むねふだとも呼ぶ)は、築造の目的や工事の年月、施主や大工の名前などを残す建築記録であり、修理が行われた寛文九年(1670)から10年を掛けて行われた事を記す棟札などが数点残っていますが、これは本堂の軒の一部に使われていた木材で、向拝(こうはい)(ごはいとも呼ぶ)という屋根の張り出した部分の破風(はふ)(向拝の端の三角の部分)から、修理のために転用された事が判っています。
こうした貴重な建築の詳細を残す棟札なども、国宝として保存されています。

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